イラストは、ゲーテがヴァイマルにきて最初に住んだ家「庭の家」です。
緑が綺麗で、イルム川の近くの自然が豊かな中にある家です。

そんな家に触発されてか、ゲーテはこの頃から「植物学」に興味を抱きました。

ゲーテはヴァイマルの庭園整備も任されており、職務上の必要性もあったのでしょう。
「植物学」の考えを生かし、「庭の家」の周りの庭もゲーテは整備します。

薬草なども植えたり、白い扉を建てて景観づくりにも力をいれました。

現在に残っている建物物を見ると黒い柵の様なものが建物の壁に線デザインのような効果を与え、この柵に草の蔦などが絡めることを想定したものだと思われます。

ヴァイマルの自然と緑を味わう観光地としておススメです。

さて、「庭の家」から始まった「植物学」は晩期(19世紀前半)には円熟を迎え、学問的にも意義深いものになっていきます。

19世紀前半の「植物学」と言いますと、日本に来たシーボルトを僕は思い出します。

シーボルトは、オランダ人として出島に来て医学などを教えたことが有名ですが、実はドイツ人で「植物学」にも力をいれていました。

そして、調べてみると「シーボルト」と「ゲーテ」は、間接的ですが関係性があったのです!!

そんな関係性を主軸に、「ゲーテ」と「シーボルト」、そして19世紀前半付近の「植物学」や「ドイツ」などについて紹介してきたいと思います。

目次
【1】「庭の家」との出会い

【2】「ルソー」と「植物学」~1770年代の植物学~

【3】「シーボルト」と「ゲーテ」と「植物学」

【1】「庭の家」との出会い

さて庭の家ですが、イルム川の西側にはヴァイマルの都市があり、東側にあります。
1776年に、『若きウェルテルの悩み』を執筆し一躍有名になり、実家があるフランクフルトにゲーテは戻っているとき、ヴァイマルの国首・アウグスト公が新婚旅行でフランクフルトを訪れた際、ゲーテに出会い、ヴァイマルの仕官を打診しました。
そして、アウグスト公から下賜されたのが、この「庭の家」になります。
そしてゲーテは「庭の家」に触発されて「植物学」に目覚めます。

【2】「ルソー」と「植物学」~1770年代の植物学~

1770年代付近に「植物学」に目覚めた男がいました。
「ジャンジャック・ルソー」です。

1762年、ルソーは「エミール」を書いたものの、危険な本として扱われ、フランスを追われることになり、スイスに亡命しました。「エミール」は、従来の「子供」を「小さな大人」として扱っていた考えを否定し、「子供」は「大人」とは違い成長過程ごとに適切な感情教育をしなくてならい、と主張したものであったため、世間には受け入れられるものではなかったのです。

そして亡命先のスイスにおいて、「植物学」を学ぶことになるのです。

この頃の「植物学」は単に植物について知るだけでなく、「生物学」にとってもとても注目を浴びている分野でした。
16世紀半ばから、アリストテレスなどの古代の考えから脱却し、自分で観察し研究する近代の流れとして、観察したものを記述し図鑑にするという活動(「博物学」)が始められました。その活動が蓄積されていき、観察された生物などを分類する考えが望まれるようになっていました。
そこで18世紀半ばにスウェーデンのリンネが雌蕊や雄蕊などの性にまつわる分類によって植物が分類できるという考え方が登場し、大きな波紋を起こしました。ここから本格的に、動物・植物・さらに鉱物など無機物なものすべてを包括する分類の仕方が模索されるようになりました。

1765年ルソーは亡命生活を続ける内に、型破りな考えが大陸では受け入れなかったものの、産業革命などが起きていたため新しい考えに寛容だったイギリスに、ヒュームの紹介があり、移住することにします。このとき、イギリスでは有名なチャールズ・ダーウィンの祖父エラズマス・ダーウィン(「進化」の考え方の原型を提唱した)を中心にリンネの「性の体系」を翻訳などしてイギリスに普及する活動が行われいるところでした。
エラズマス・ダーウィンは丁度ルソーが移住してきた頃、「ルナ協会」というイギリスでの先駆的な考え方を持った人たちを集めた協会を作っています(陶器で有名なジョサイア・ウェジウッドや蒸気機関で有名なジェームス・ワットや酸素の発見で有名なプリーストリーなどが参加)。更にリンネの「性の体系」を翻訳するとともに詩にして紹介して、先生ショーンを起こしています。また「ズーノミア」という論文で動物について革新的な考えを述べ、「進化」という考え方を提唱しています。
このように「生物学」としての「植物学」の流れがイギリスで起ころうとしたときにルソーはイギリスに行きます。

その後、1770年にルソーはフランスに戻ります。
そこでフランスの「パリ植物園」を管理してた「博物学」の大家・ビュフォン伯爵と合います。ビュフォンはリンネの考えの影響を受けつつも、「性の体系」のような静かな一部分のみで分類するのではなく、もっとダイナミックな分類の仕方を模索していました。
ルソーはビュフォンと生涯一度だけこのとき合うのですが、リンネを超える分類の仕方の必要性をお互いに確認し合った会話をしています。
更に、「パリ植物園」にルソーはその後入りびたるのですが、キリンの首が環境に適応するために長く進化したなどの深化しそうで有名なラマルクと出会っています。ラマルクはこの頃、従軍の後に博物学に興味を持ち研究し始めた頃でした。そのためパリ植物園で良く研究していたのです。それがルソーと出会うことになるのです。

このように、1770年を前後にリンネから始まった流れが「イギリス・フランス」と波紋を起こして「植物学」が「生物学」の流れに大きな影響を及ぼしていた時期でした。

そして1776年、「植物学」を本格的に勉強し始めたゲーテの時期も、その流れが「ドイツ」にも及ぼしてきた時期だったのです。

ゲーテも分類の在り方を考え、動的な変化に方向性を見つける方向に向かっていきます。

【3】「シーボルト」と「ゲーテ」と「植物学」

ヴァイマルと密接な関係があったイェーナの大学付属植物園に「ゲーテの木」と呼ばれる「銀杏(イチョウ)」があります。
「銀杏」は、「日本ではありふれた木だが、この銀杏、恐竜が棲んでいた時代からの「生きた化石」で、中国・日本など東アジア地域に限定して生存する裸子植物である。」(※)

と言うように銀杏はヨーロッパでは貴重な植物でありました。銀杏の種を始めてヨーロッパに持って帰ってきたのは、日本に来て徳川綱吉とも謁見したケンペルが始めとなります。その後、リンネの弟子であるトゥンベリが日本に来て田沼意次と共に政治を執っていた徳川家治と謁見し、日本に銀杏の苗を持ち帰ったことからヨーロッパでは銀杏の栽培が始まりました。それが1770年後半ごろの話であり、その流れが普及し始めたのが18世紀末になり、イェーナでも1795年から銀杏の記録が始まっています。そして、その流れの銀杏が「ゲーテの木」なのです。

つまり、「植物学」の視点は「銀杏」を通して「日本」に向いてました。
この「植物学」と「日本」の視点が間接的に「シーボルト」と「ゲーテ」を結びつけたのです。


シーボルトは1796年生まれと、1749年生まれのゲーテとは50歳近く離れています。ドイツのヴェルツブルグ出身で、祖父の代から医学に優れた家系でした。
特に祖父のカール・シーボルトがヴェルツブルグで有名です。


彼は、今まで人体の構造の理解などをメインに使っていた解剖を、生きた人間に麻酔をかけて治療する手術する1805年近代オペ室を作り、解剖を本格的に治療に役に立てた人物として「医学史」にも名を残しています。
この解剖学の流れは、ゲーテも時を同じくしています。ゲーテも早い時期から解剖学に興味を持ち小説『ヴィルヘルムマイスターの遍歴時代』では医者になるための修行をする主人公を描いています。ゲーテは後年、今まで解剖を絵で描いていたのを、蝋で標本を作る「造形解剖学」に関与しています。こちらも近代手術の登場と関係していて、臨床の在り方を3Dで把握するという目的として発達してきたのでした。
そして、シーボルトの父やその兄弟も解剖学や産婦人科の臨床などで活躍しています。

さて、そんな環境で育ったシーボルトも祖父と父の兄弟たちが教授をしているヴェルツブルク大学に通い医師を目指します。
そして、1817年解剖学と生理学の教授・イグナス・ドリンジャーのもとに住み込んだとき、ボン大学の植物学で有名なエーゼンベック教授と知遇を得るのです。
このときから、シーボルトは「植物学」にもかなりの興味を示します。当時、医師の薬として薬草を調合するのにも役に立ったという事情もあるのだと思います。
そして、医師になったとき、珍しい植物が生息している「日本」に行く話が出たとき、「植物学」の好奇心が沸いたこともあり、「日本」に訪れることにするのです。
1822年から1828年まで来日し、松平定信と政治を執っていた徳川家斉と謁見しています。そして、日本では植物の観察と共に、日本人に医学と共にリンネを始めとする近代植物学を広めています。

以上がシーボルトの「植物学」と「日本」への興味を抱いた流れなのですが、この興味を抱く発端となったボン大学の植物学の教授エーゼンベックが、実は「ゲーテ」とも親交を持っていたのです。

エーゼンベックは上記のように「シーボルト」とは、「植物学」を学ぶきっかけを作りました。更にその後も親しく付き合い「日本における研究の支援者でもあり、彼が日本で収集した大量の植物標本等の受取人の一人」(※)にもなっています。

また「ゲーテ」とは「植物学」の流れで1819年に、エーゼンベックとゲーテが面会をし、親交が始まります。その後もブラジルに派遣された珍しい植物を収集した学者との親交の仲立ちをしたり、ゲーテはエーゼンベックと親しく付き合いました。

こうして、「ゲーテとシーボルトの間に直接の面識はなかったとされる」ものの、エーゼンベックを通して、間接的に影響を受けていたのです。

※『科学する詩人 ゲーテ』石原あえか、慶応義塾大学出版会株式会社、2010.4.30から引用 :またこちらの記事を書くにあたりこちらの著作を参考にしています。

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